けたろーです。 最近、ちょっと〝生き方〟について思うことがあって。
アリとキリギリス。
イソップの童話に『アリとキリギリス』という話があります。 よく知られた話なので、ご存じの方も多いと思います。 ざくっとあらすじを言うと…
夏の間、連日音楽を奏で楽しんでるキリギリスに対して、冬場に備え日々コツコツと働くアリ。 『そんなに一生懸命働かず、君たちももっと楽しめばいいのに!』というキリギリスに対して、アリたちは『冬になれば、困るのは君だよ。』と。 やがて、冬がきて食べ物がなくなり、路頭に迷ったキリギリスがアリの元へ・・・
この結末には2通りあって、1つは、アリに助けを求めたキリギリスは拒否られ死んでしまうというパターンと、アリがキリギリスを迎え入れ、一緒に冬を過ごすというパターン。 原作は、前者の方だったらしいですね。
この話は、たぶん働くことへの教訓を謳っていると思うのですけど解釈の仕方が違った見方ができると思います。 ボクが感じたのは、『今〝ここ〟を生きる』という点です。
今〝ここ〟を生きる。
寓話の中でのキリギリスは、恐らく教訓の対象のような感じで描かれています。
だけど、キリギリスの生き方は、それはそれで正解なのかもって思うのです。 なんでか?
誤解を恐れずにいうと、キリギリスは『今ここ』を楽しんで生きているように見えるからです。(むろん、話しの中でのことですけど。)
寒さと飢えで物悲しい結末にはなるのですけど、少なくともキリギリスの生き方は人生を謳歌しているように見えます。 自分がやりたいことをやり、『今ここ』をきちんと生きてるなぁって思えるのです。
ちなみに、『今ここ』を生きるとは、今、その一瞬、一瞬を精一杯楽しんで生きるということです。
今ここを生きるという視点で日々の生活を考えた時、どうでしょうか? ほとんどの場合、過去への囚われや将来や未来に対する事由の中で生きていて、『今ここ』という視点は薄らいでいるように思えます。
確かにアリの生き方も一理あるとは思います。 でも、一生懸命働いてるさ中に、亡くなってしまったらどうなんだろう? って思うんです。 もっとも、働くことに生き甲斐を見つけ、働くことが楽しくて仕方がないということであれば話は別なのでしょうけど、人生への楽しみも見いだすことすらなく、働き通しの挙句に命を失ってしまうという状況があったとするならどうなんだろう? って。
なんだか、今の日本人を象徴している気がしませんか?
何のために働くか?
アリのように一生を働きづめで終えてしまう生き方ってどうなんだろう? って思うわけです。 ここで考えみたいのが〝働くこと〟についてです。 概ね、働くこととは、『=食べていくこと、お金をえること。』という考え方が主流なのではないでしょうか?
また、そんな風に捉えるのが現代社会では至極一般的なのかもしれません。 けど逆に、ものすごく潤沢な資金や資産があって、日々食べることにも困らない状況があったするなら、あなたならどうしますか?
日々、一生をダラダラと過ごしますか?
ダラダラとはいうものの、恐らく何かしら〝働くこと〟はしていると思います。 恐らくそれは、お金や食べること以外に見いだした価値観の下での働き方だと思えます。
よくよく考えると、その価値観の下での働き方が本来の〝働くこと〟だと思えるのです。
働くこととは?
働くこととは?
をある人から聴いたことがるのですが、彼曰く、働くこととは周りを豊かにすること。 または、その行為であると言われていました。 働く、即ち、『傍を楽にする』ということにあてた解釈です。
働くことで、周りにプラスの影響を与えていく。 それは、例えばプロダクツを生み出すことであったり、何かしらのサービス提供であったり。 それによって、誰かのためになっていくということです。
例えば、ネジ一本を考えた時、そのネジ一本で機械を組み立てることができます。 という意味では、ネジ一本をつくるという働きが、次の人(工程)の〝幸せ・豊かさ〟を担っているということに繋がっていきます。 また、飲食店の場合を考えると、料理を提供するという働きで人々の空腹を満たし、感情を和やかにさせたりといった影響を与えていますよね。
そんなことを考えると〝働く〟という行為が、その周りの環境へ波及的に影響を与え、またそれが働くことについての根本的な意味になると思うんです。
これをキリギリスの場合で考えてみます。
キリギリスは楽器を奏で、歌を歌い、一見すると『自分だけ』が楽しんでいるように見えます。 でも、大きな視点で見れば、彼は周りに〝音楽〟という癒しや楽しみを与えているようにも解釈できます。 要は、アリのように目に見えるような実務をこなすことだけが働くということではないということです。
人生を後悔しない。
コロナ禍になって、働き方や働くことへの考え方もずいぶん多様化し、様変わりしつつあるように感じます。 オンラインで仕事ができる人たちは、会社に通うという行為そのものがなくなり、また、場所という概念も薄らぎましたよね。 今までの『働くこと』についての価値観とは大きく変わってきているのはすごく実感できます。
結局のところ、『働くこと』について自分自身が何を見いだすか? なのだと思ってます。
考えてみると、人生の大半は『働くこと』です。 その目的を単に、食べていくこと、金を稼ぐこととしてしまうにはあまりにももったいなく、物悲しく思えるのです。
一つ言えることは、人生の終幕に自分の歩んできた道を振り返った時、後悔だけはしたくない ということ。
アメリカンネイティブの中のこんな話を聴いたことがあります。
人は生まれてくるとき、自分が泣いて産まれてきて、周りは笑顔で祝福してくれる。 一方、自分が亡くなるその時には、自分が笑顔で逝き、周りは涙で送りだしてくれる。 そんな生き方が善い生き方だ。
これを聴いたとき、ハッとしました。 どれだけ稼いだとしても、周りに対して『悪』だとするなら、それはいい人生と言えるのだろうか? 亡くなるときに周りから、『あ~、あの人亡くなってせいせいするわ!』 なんて言われたとするなら、その人の人生での行いは決して褒められるものではなかったということですもんね。
また、このフレーズも思い出しました。 北斗神拳の漫画にでてくるラオウの
『わが生涯にいっぺんの悔いなし。』
という言葉です。 実はこれ、ボクの好きなフレーズでもあります。
悔いなき人生と言えるようにどんな風に働くか? 自分にとって働くとは何なのか? たぶん、それが各々の人生に課せられた命題であるのだと思えます。
悔いなきように〝今ここ〟を精一杯楽しんで生きる。 言うは易しだけど、実践していきたいですね。