※この記事は2026年5月に加筆・更新しました。
ふと思ったことがある。
世の中を見れば、主張の強い人の意見が通りやすいみたいだということ。
こんにちは。
Worker’s Cafe のけたろーです。
心や身体のこと、日々の暮らしのこと、仕事と生活のあいだで感じたことを、ここではゆるく書いています。
さて…。 今回はこんな話です。
本当に大切なことは、声のでかさではない。
自分の意見を通すために激しく主張する。
それによって、自分の言い分を勝ち取る。
その行為で、正当性が担保されるのであれば、それ自体は特に悪いことではないと思える。でも … 「本当のところの意見」ってどうなんだろう? って、と思うんだよ。
確かに、一方から見れば、主張してくれる方がわかりやすくてよい。
何が悪いのか? 何が気に入らないのか?
声高に主張されれば、非常に理解しやすいし、意見として入ってきやすい。
これって、例えば、小さい子どもが駄々をこねるのもそうなんだろうって思える。
何が嫌なのか? 何が気に入らないのか?
それが言葉にならなくても、駄々をこねる姿を見れば、すぐにわかる。また例えば、ボクの世代の昔の校内暴力が流行ったころなどもわかりやすかったように思える。
むろん、暴力は許されたものではない。でも、わかりやすさと言う点で言えば、圧倒的にわかりやすかった気がするのは否めない。
が、その一方で… その陰ではどうだったのだろう? と思うんだよね。
本当の声は、裏側でかき消されてる
激しい主張の陰で、言いたいことを言えない声が掻き消されていたのも事実としてあるんじゃないか? って。
もしかすると、その声高に叫ばれた主張は、全部を反映していないごく一部の主張だったのかもしれないのに…
声なき声は、相手が自発的にわかろうとしない限りわからないし、気づかない。
… でも、〝その声〟は確実に存在していて、もしかすると、それは、どんな主張よりもはるかにホンネがこもった有意義な声なのかもしれない。
にもかかわらず、多くはそれを理解しようとせず、主張の激しい〝見えている声〟ばかりに囚われてしまう。
理由は簡単。
端的に言えば、陰になってる言葉を聴くのが、メンドクサイということだ。
相手に興味関心をもち、相手に寄り添い、相手をわかろうとしない限り、声なき声を理解することはできない。そのプロセスを経ない限り、その声にはたどり着けない。
でも、「伝える」と「聴く」は、表と裏の関係だと思う。
伝える側が声なき声を出してるとして、受け取る側がそれをキャッチできるかどうか。相手の声を聴く側のスキルが上がれば、伝わり方も変わってくる気がしてて…
そういう「伝え方・聴き方」についてすごく実用的に書いてある本があって。
読んでから、人との会話が少し変わった気がしています。
それを考えると、確かに、そのプロセスはメンドクサイことなのかもしれないね。しかしこれだけは言える。
本当の声は、声高に主張してくる輩よりも声をあげない側に眠っているということ。
だから、聴ける人間でいたいと思う。
声が小さくても。言葉にならなくても。
その人の「ホンネ」に近づこうとする姿勢を持ち続けることが、たぶん大事なんだと思う。聴くって、メンドクサイことだけど、その分、得られるものが大きいし、ほんとうのコミュニケーションって、聴くことからなんだと思う。
「声なき声」を受け取るためのコミュニケーションの本を、もう一冊。
自分の気持ちを正直に伝えながら、相手の声もちゃんと受け取れるような関係のつくり方について書いてあります。
