ふと思ったことがある。
世の中を見れば、
主張の強い人の意見が通りやすいみたいだということ。
自分の意見を通すために激しく主張する。
それによって、自分の言い分を勝ち取る。
その行為で、正当性が担保されるのであれば
それ自体は特に悪いことではないと思える。
でも …
〝本当のところの意見〟ってどうなんだろう?
と思うのだ。
確かに、一方から見れば、
主張してくれる方がわかりやすくてよい。
何が悪いのか? 何が気に入らないのか?
主張されれば、非常に理解しやすい。
これは、例えば、小さい子どもが駄々をこねる
のもそうだろう。
何が嫌なのか? 何が気に入らないのか?
駄々をこねる姿を見れば、すぐにわかる。
また例えば、
一昔前の校内暴力が流行ったころなども
(ボクの世代がそうだったのだけど・・)
わかりやすかったように思える。
むろん、暴力は許されたものではない。でも、
わかりやすさと言う点で言えば、圧倒的に
わかりよかった気がするのは否めないだろう。
が、その一方で…
その陰ではどうだったのだろう? と思うわけだ。
激しい主張の陰で、
言いたいことを言えない声が掻き消されていたのも
事実としてあるのではないか?
もしかすると、その声高に叫ばれた主張は、
全部を反映していないごく一部の主張だったの
かもしれないのに…
声なき声は、
相手が自発的にわかろうとしない限りわからないし、
気づかない。
… でも、
〝その声〟は確実に存在していて、もしかすると、
それは、どんな主張よりもはるかにホンネがこもった
有意義な声なのかもしれないのだ。
にもかかわらず、多くはそれを理解しようとせず、
主張の激しい〝見えている声〟ばかりに囚われてしまう。
理由は簡単。
端的に言えば、メンドクサイということだ。
相手に興味関心をもち、相手に寄り添い、
相手をわかろうとしない限り、
声なき声を理解することはできない。
そのプロセスを経ない限り、その声にはたどり着けない。
そう考えると、確かに、そのプロセスは
メンドクサイことなのかもしれない。
しかしこれだけは言える。
本当の声は、
声高に主張してくる輩よりも声をあげない側に
眠っているということだ。